通り過ぎた岐路

遠い昔に通り過ぎた岐路。
もしも、此方の道へ歩まなかったら。

 

女がいる。もしかしたら、まだ娘と言ってよい年の頃かもしれない。
短く切りそろえた髪は褪せたような浅紫、瞳の色は深緋。　
色白で、そこそこ血色のいい顔をしているのだが、なぜだか目の下にはうっすらとクマがある。
顔立ちは決して悪くない。むしろ美人の類と言って間違ってはいない……のだが、常に目付きが悪い。
この世に楽しいことなんか無いんだ、とでも言いたげな表情を年中無休で貼り付けている。

少し離れて見てみれば、年頃の娘としてこれはまずいんじゃないか、むしろこれは娘ではなく女顔の少年なのではないか、と思うほど起伏に乏しい。腰周りは細いが。
娘の名はエストリッド、二十歳。とある暴力組織に属する暗殺者である。
普段は淫売屋の下働きをしていて、上からの呼び出しに応じて暗殺の仕事に駆り出されている。 
店の掃除、営業用の手紙の代筆、酒肴の調理から何から色々と雑用を引き受けていて、手先が器用なので店の女将や娼婦からはそこそこ重宝されている。



掃除をしているのにも関わらず埃っぽい屋根裏部屋で、エストリッドが窓の横に腰掛けている。
布を張った刺繍枠と、針を手にして。
 元の生まれ故郷が刺繍の盛んな地域だったことが影響している……のかは分からない。
とにかく娯楽の無かった子供時代に、上達すれば小金にもなるし、ちまちまと刺して糸で模様を描くのが性に合っていたが故に打ち込み始めた刺繍は、この頃では結構な腕前になっていた。
部屋を見回せば、暇を見ては作ったサンプラーがあちこちに掛けられている。
このサンプラーを上層の服飾店に持って行けば、即戦力として採用してもらえるのではないだろうか。
他の仕事が無い時は毎晩刺繍に打ち込んでいるが故に、クマも消えない。

今は何を作っているのかといえば、店一番の売れっ子から、「お得意様に渡したいから代わりに作って欲しいの」と言われ、そのお得意様の名前と彼女の名前を入れた刺繍のハンカチーフを作っているのだ。
贈る相手のお得意様というのは、ルームサービスを届けに行ったエストリッドを面と向かって不器量と罵った豪商である。
それ以外でも、無茶な注文をしてきたり何だのと、下働きからも女将からも評判は悪い。
それなのに引き受けたのは、店一番の売れっ子というのがエストリッドと仲のいい娘であり、親友からの頼みとあらば断りづらかったからだ。
「日頃からこき使ったりバカにしてる下女が刺した刺繍を有難がって。お大尽もザマァないわね。ふふっ」
縁には花緑青の糸でチェーンステッチを、お大尽の名前は翡翠色で、売れっ子の名前は鴇色のサテンステッチで。
贈り先は気に入らないが、親友のためだ。頑張ろう。



刺繍のハンカチーフも刺し終え、お大尽がその出来に感激して売れっ子にチップを弾み、そのチップを謝礼として丸々貰い受けた後、あくる日。
仕事が入った。内容は、敵対する別の暴力組織との抗争。
雑巾をつぎはぎした様な服を脱ぎ、機動性を重視した、身体の線がはっきりとするような服を着込む。
ナイフと鞘を固定したカラビナが付いているベルトを腰に付け、窓から夜の闇へと舞い出る。
指定された場所には、所属する暴力組織の者や従属、もしくは友好関係にある組織の者が集まっていた。
刺客、剣客、悪漢、その他もろもろ。
顔なじみの者、そうでない者もいる。

月が上天に昇る。戦がもうすぐ始まる。
「……あたしと地獄に付き合ってもらうわよ。」
短剣を手にした魔女が、駆けてゆく……